中谷宇吉郎は困った人でした。1900年生まれの中谷と約半世紀後に生まれた私との間にはなんの面識もありません。しかし、小学校の頃担任の教師が、同郷の偉人として事あるごとに引き合いに出し、「中谷先生のように...」「中谷先生は...」などと説教したからです。
今調べると、中谷宇吉郎は昭和37年(1962年)61歳に亡くなっています。雪の結晶を室内で世界で初めて作り上げた科学者として、また低温科学研究の大御所として、そして何よりも郷里の偉人の逝去が与えた宇吉郎への回顧ブームから、当時言及が多かったのかもしれません。没した翌年の昭和38年(1963年)の北陸地方は、「サンパチの豪雪」として知られる豪雪の年でした。この頃のことでした。
担任の先生から何を言われても、小学生の私には、中谷先生の偉業がわかるはずはなく、ナカヤサンはどこかのオジイサンでした。「中谷宇吉郎先生のように...」の言葉は、中谷宇吉郎の名前と、うすぼんやりしたお爺さんのイメージだけ残して消えていきました。
中谷宇吉郎を再発見したのは学生になってからのことです。漱石の『吾輩は猫である』の寒月のモデルが寺田寅彦で、この寺田が優れた科学者であるばかりでなく、名随筆家であることを知り、その寺田寅彦の随筆から、中谷宇吉郎が弟子と知り、中谷の随筆集を読み始めたと記憶しています。
人工雪を作る話から焼き物の話、恩師の寺田寅彦の話、英国留学中の下宿屋の話や紀行文など、多彩な話題を取り上げながら、どのエッセイにも一流の温かみと洞察があります。また、偏見かもしれませんが、科学者らしく文章の構成がはっきりしている。描写が的確で曖昧さがない。ゆえにとても理解しやすい。私には中谷の恩師の寺田寅彦よりも上手に感じました。しかしながら、中谷宇吉郎の姿は、小学校のころ感じたままのお爺さんでした。
その私の印象が劇的に変わることになったのです。詳細は次回に...(続く)
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