ラベル 郷里の思い出 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 郷里の思い出 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年8月17日月曜日

川遊び

 Having a dip in the river

故郷の川については以前あるところに書きましたが、何しろ50年ほど前のことですから、今の川とはきれいさが異なり、同じ川として語ることがはばかられます。私の住んでいた下流域の町でも、大川(町中を流れる川は通常こう呼ばれていました)では赤ん坊のおしめの洗濯が禁じられ、水は澄み切ってオイカワ、ウグイ、フナなどが銀鱗をきらめかせ、モクズガニが遡上していました。

川魚漁師はいませんでしたが、川魚を捕るには特に鑑札も必要なく、餌づり、疑似餌づり、投網、ヤス突きなどいろいろな漁法があり、子供なりに見よう見まねで魚を捕ることを覚えました。その中でもっとも簡単かつ確実だったのが、ゴリ類を捕る方法でした。ゴリは白い石を選んで遡上する性質があり、これを利用した漁でした。

捕れるゴリの種類は「エササ」と呼ばれる小さなゴリ(おそらく琵琶湖のイサザに近いものでしょう)と、それより少し大きな「ゴリ」と呼ばれる魚(これはおそらくカワヨシノボリの類、また京都などではヌマチチブと呼ばれる魚の類と思われます)でした。

漁は小型の簗(やな)漁の一種でした。岸に近く、流れがある浅瀬で、ゴリの遡上が認められる場所を選びます、そこに石を集めて流れをせき止める形で幅1.5mほどの堰を作ります。堰は上流に向かって若干開いた「ハの字」形に作り、真ん中にはザルが入るように隙間を作ります。上流からの水は堰に導かれて隙間から勢いをつけて流れるような仕組みです。

次に川底からできるだけ白い石を集めて、隙間からの流れの下に敷き詰めます。白い石は簗に近いところではできるだけ密に敷き詰めるようにします。この隙間の部分にザルを下流に向かって開くように、横合いの堰との間に隙間ができないようにあてがいます。水流で流されないように重しに石を入れておきます。水は堰で集められ、ザルを通って勢いよく下流に向かって白い石の上を流れる、ということになります。

仕掛けができて、静かにしていると、小さなもの大きなもの、ゴリたちが徐々に遡上しはじめ、白い石に導かれて上がってきます。ザルのところまで行き着くと、それ以上進めないので、徐々にザルの中に溜まることになります。頃合いを見計らって、そおっとザルを引き上げます。バケツの中に魚を移します。

一回に何匹捕れたでしょうか、4,5匹のこともあれば、10匹を超えることもあったでしょう。子供は水遊びに夢中で、このような漁は主に川好きなお年寄りの慰みだったように思いますが、これを繰り返し、夏の日が傾く頃には、バケツを覗くと真っ黒になるほどの漁があった日もありました。持ち帰ったゴリは、甘辛く煮付けて佃煮にして食べたようです。

私が桂川のそばに住み始めたのが今から約40年前でしたが、この頃には、故郷の川と同じようにゴリの類の遡上が見られ、試みに同じような仕掛けを作って、ゴリを捕らえた覚えがあります。

その頃と比べると、川の姿(特に水質、ゴミの量)は一変しました。今すぐに、かつてのような生き物の豊かな川を望むことはできませんが、それに近づける努力は不断に行っていきたいと思っています。

写真は桂川の川ヨシノボリ。のぞきめがねを通して撮影。

2020.08.15.撮影
2020.08.15.記述


2020年2月2日日曜日

『中谷宇吉郎随筆集』思い出すこと(続き)

中谷宇吉郎については、いくつか著作を読みはしましたが、その後に私自身の学業や留学、結婚、就職などが続き、すっかり忘却の彼方になりました。再発見がいつ頃だったか、はっきり覚えていませんが、職を得て随分立ってからのことだと思います。札幌で学会があり、発表を終えて、札幌大学の構内を歩いていた時、ふと六角形の記念碑が目に入りました。木立の奥に、半ばひっそりと「人工雪誕生の地」と刻まれています。「ああ、そういえばここはあの中谷宇吉郎の...」と碑にちかづくと、その脇に碑の由来を書いたパネルの掲示がありました。その写真が驚きだったのです。下の写真がそれです。

北海道大学理学部「理学部ゆかりの研究者」より

そこには、極低温の実験室の中で防寒服に身を固めた若者が、眼をカッと見開いて研究装置を覗き込んでいる姿がありました。対象に食らいつく眼光は鋭く、はつらつとした表情は、それまでのうすらぼんやりしたおじいさんのイメージを吹き飛ばすものでした。血気盛んな新進気鋭の研究者としての姿が、そこにはありました。この時はじめて中谷宇吉郎を研究者として、同世代の若者として、血肉を持った人間として実感できました。

その後あらためて随筆集を読み直してみると、一つひとつの随筆の中に宇吉郎の姿が生き生きと立ち上がってきました。それ以来中谷宇吉郎の随筆は私のお気に入りの書の一つです。もしも小学校の教師の一人でも、このような、気迫と魅力に富んだ宇吉郎の姿をしっかりと伝えてくれたならば、私の人生ももっと違ったものになっていただろう、と考えるのは、身勝手な想像でしょうか。

2020.01.30.記述




2020年2月1日土曜日

『中谷宇吉郎随筆集』思い出すこと

中谷宇吉郎(なかや うきちろう)

中谷宇吉郎は困った人でした。1900年生まれの中谷と約半世紀後に生まれた私との間にはなんの面識もありません。しかし、小学校の頃担任の教師が、同郷の偉人として事あるごとに引き合いに出し、「中谷先生のように...」「中谷先生は...」などと説教したからです。


今調べると、中谷宇吉郎は昭和37年(1962年)61歳に亡くなっています。雪の結晶を室内で世界で初めて作り上げた科学者として、また低温科学研究の大御所として、そして何よりも郷里の偉人の逝去が与えた宇吉郎への回顧ブームから、当時言及が多かったのかもしれません。没した翌年の昭和38年(1963年)の北陸地方は、「サンパチの豪雪」として知られる豪雪の年でした。この頃のことでした。

担任の先生から何を言われても、小学生の私には、中谷先生の偉業がわかるはずはなく、ナカヤサンはどこかのオジイサンでした。「中谷宇吉郎先生のように...」の言葉は、中谷宇吉郎の名前と、うすぼんやりしたお爺さんのイメージだけ残して消えていきました。

中谷宇吉郎を再発見したのは学生になってからのことです。漱石の『吾輩は猫である』の寒月のモデルが寺田寅彦で、この寺田が優れた科学者であるばかりでなく、名随筆家であることを知り、その寺田寅彦の随筆から、中谷宇吉郎が弟子と知り、中谷の随筆集を読み始めたと記憶しています。

人工雪を作る話から焼き物の話、恩師の寺田寅彦の話、英国留学中の下宿屋の話や紀行文など、多彩な話題を取り上げながら、どのエッセイにも一流の温かみと洞察があります。また、偏見かもしれませんが、科学者らしく文章の構成がはっきりしている。描写が的確で曖昧さがない。ゆえにとても理解しやすい。私には中谷の恩師の寺田寅彦よりも上手に感じました。しかしながら、中谷宇吉郎の姿は、小学校のころ感じたままのお爺さんでした。

その私の印象が劇的に変わることになったのです。詳細は次回に...(続く)

2019年7月30日火曜日

セミ捕りの思い出

子供の頃の夏の楽しみは、虫捕りでした。まれにしか捕れないカブトムシやクワガタを探すのも楽しかったですが、もっとも身近にいて一番の遊び相手はセミでした。自宅裏手には背戸と呼ばれる雑木林があり、自転車で5分とかからないところには境内にケヤキやモチノキなどがうっそうと茂る神社があったので、セミ捕り場所には事欠きませんでした。

セミはまず、7月半ばからのニイニイゼミ、そして8月のアブラゼミ、お盆が過ぎる頃にはツクツクボウシがよく鳴きました。この頃になると、夏休みの宿題が気になってきます。8月末になるとニイニイゼミの姿はまばらになり、アブラゼミは捕まえても元気がなく、足を丸めて「ジジ、ジジ」としか鳴かない「ジジゼミ」が多くなりました。夏の季節の変化はセミで確認していました。

祖父母の田舎に行くと、まれにミンミンゼミやヒグラシが捕れることがあり、これは特に嬉しかったです。祖父母の家には虫かごなどないので、取れた蝉は、マメをふるう木製の大きなふるいを逆さに伏せてその中に入れておきました。また、家の周囲には広い畑があり、夏には実を収穫したトウモロコシがたくさんあったので、この茎を適当な大きさに切って入れておくと、のど(?)が渇くのでしょう、蝉たちはすぐにトウモロコシに移り、口吻を立てて液を吸い始めます。機嫌が良くなると、オスたちは大きな声で鳴き始めます。戸外でもかなり大きな声ですが、室内で鳴く蝉の声の大きさは、築100年の古屋を振るわせるほどでした。

当時は今のように気の利いた虫捕り網など簡単には手に入らず、ましてや田舎の家にそのようなものがあるはずもなく、虫捕り網は蜘蛛の巣で手作りしました。太い針金を丸く曲げて、それを竹棒の先に細い針金で固定し、丸い輪のついた竹の棒を作ります。次に大きく張ったオニグモの巣を探して、丸い輪で蜘蛛の巣を絡め捕ります。これを何度か繰り返すと、丸い輪の中に粘つく蜘蛛の巣が張られた状態になります。これでセミを捕まえるわけです。クモはオニグモでなければなりません。他のクモでは巣の強度が足りません。

クモは夕方に巣をかけ直しますので、そうやって作ったセミ捕り網は、前の晩に作られた蜘蛛の巣のリユースです。また、捕らえたセミを網の中に入れ込むこともできませんので、捕獲の成功率は低いです。また、力の強いセミは蜘蛛の巣の粘着力では捕らえきれず、また巣を破って逃げることもありますので、5回トライして1回成功すればラッキーというような蝉捕りでした。一、二度トライすると粘着力が弱まったり、網を壊されたりしますので、網の補強にまた蜘蛛の巣を探す必要がありました。なんとも原始的な方法ではありますが、今風に言えば、持続可能な民族捕鯨ならぬ、持続可能なセミ捕りとでも言いましょうか。

捕らえた蝉はその日のうちに逃がすのが恒例で、少々羽の痛んだ蝉たちを放り上げると、ぱっと羽を広げて、一目散に飛んで逃げる姿が、懐かしく思い出されます。お盆前には逃がすときに「ぼ~ん(盆)に金(かね)持ってこ~い、こい(来い)」と唱えながら逃がすものだ、と教えられその通りにしていましたが、未だにお盆に蝉からお小遣いをいただいたことはありません。しかしながら、蝉からは、お金に換えられない貴重な体験をたくさんもらったことは、間違いありません。



2019.07.27.記述




京北の林内探索

京北の樹木植物に詳しい方に案内していただいて、ホンゴウソウを探しに行きました。昨年枯れたものを見つけられたとか。目的の場所に行くと、Bingo!約20株ほどが集まって、周囲にもまばらに生えていました。ヒノキ林の林床です。そこから冬虫夏草探索に切り替え、ムシヒキアブのアナモルフ、ガ...