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2020年2月2日日曜日

『中谷宇吉郎随筆集』思い出すこと(続き)

中谷宇吉郎については、いくつか著作を読みはしましたが、その後に私自身の学業や留学、結婚、就職などが続き、すっかり忘却の彼方になりました。再発見がいつ頃だったか、はっきり覚えていませんが、職を得て随分立ってからのことだと思います。札幌で学会があり、発表を終えて、札幌大学の構内を歩いていた時、ふと六角形の記念碑が目に入りました。木立の奥に、半ばひっそりと「人工雪誕生の地」と刻まれています。「ああ、そういえばここはあの中谷宇吉郎の...」と碑にちかづくと、その脇に碑の由来を書いたパネルの掲示がありました。その写真が驚きだったのです。下の写真がそれです。

北海道大学理学部「理学部ゆかりの研究者」より

そこには、極低温の実験室の中で防寒服に身を固めた若者が、眼をカッと見開いて研究装置を覗き込んでいる姿がありました。対象に食らいつく眼光は鋭く、はつらつとした表情は、それまでのうすらぼんやりしたおじいさんのイメージを吹き飛ばすものでした。血気盛んな新進気鋭の研究者としての姿が、そこにはありました。この時はじめて中谷宇吉郎を研究者として、同世代の若者として、血肉を持った人間として実感できました。

その後あらためて随筆集を読み直してみると、一つひとつの随筆の中に宇吉郎の姿が生き生きと立ち上がってきました。それ以来中谷宇吉郎の随筆は私のお気に入りの書の一つです。もしも小学校の教師の一人でも、このような、気迫と魅力に富んだ宇吉郎の姿をしっかりと伝えてくれたならば、私の人生ももっと違ったものになっていただろう、と考えるのは、身勝手な想像でしょうか。

2020.01.30.記述




2020年2月1日土曜日

『中谷宇吉郎随筆集』思い出すこと

中谷宇吉郎(なかや うきちろう)

中谷宇吉郎は困った人でした。1900年生まれの中谷と約半世紀後に生まれた私との間にはなんの面識もありません。しかし、小学校の頃担任の教師が、同郷の偉人として事あるごとに引き合いに出し、「中谷先生のように...」「中谷先生は...」などと説教したからです。


今調べると、中谷宇吉郎は昭和37年(1962年)61歳に亡くなっています。雪の結晶を室内で世界で初めて作り上げた科学者として、また低温科学研究の大御所として、そして何よりも郷里の偉人の逝去が与えた宇吉郎への回顧ブームから、当時言及が多かったのかもしれません。没した翌年の昭和38年(1963年)の北陸地方は、「サンパチの豪雪」として知られる豪雪の年でした。この頃のことでした。

担任の先生から何を言われても、小学生の私には、中谷先生の偉業がわかるはずはなく、ナカヤサンはどこかのオジイサンでした。「中谷宇吉郎先生のように...」の言葉は、中谷宇吉郎の名前と、うすぼんやりしたお爺さんのイメージだけ残して消えていきました。

中谷宇吉郎を再発見したのは学生になってからのことです。漱石の『吾輩は猫である』の寒月のモデルが寺田寅彦で、この寺田が優れた科学者であるばかりでなく、名随筆家であることを知り、その寺田寅彦の随筆から、中谷宇吉郎が弟子と知り、中谷の随筆集を読み始めたと記憶しています。

人工雪を作る話から焼き物の話、恩師の寺田寅彦の話、英国留学中の下宿屋の話や紀行文など、多彩な話題を取り上げながら、どのエッセイにも一流の温かみと洞察があります。また、偏見かもしれませんが、科学者らしく文章の構成がはっきりしている。描写が的確で曖昧さがない。ゆえにとても理解しやすい。私には中谷の恩師の寺田寅彦よりも上手に感じました。しかしながら、中谷宇吉郎の姿は、小学校のころ感じたままのお爺さんでした。

その私の印象が劇的に変わることになったのです。詳細は次回に...(続く)

京北の林内探索

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